マーノート

マーは2010年2月生まれの女の子。小1で不登校、発達相談で広汎性発達障害(自閉スペクトラム)と見るべきだと指摘される。ここは「言われてみると自分も」感が満点の父=私のブログ。登場する「キューちゃん」は妻(マーの母)。

境界線の「こちら側」

 NHKスペシャル発達障害」(5月21日放送)。「で、その普通ってなによ、ってことになる」っていうように、現今のアタリマエを問い質す視点があったところが良かったと思う。

 

 「なるほど~」と思ったのは、「発達障害の人たち」(うちのマー)以上に「自分」のこと。

 ・このADHDの子の様子、私がちょっと疲れた状態でパソコンをいじってる時と同じだ。メール、ネット、書類と、あちこちに気が取られてしまう。

 ・こどものころ世界はもっとまぶしく見えていた。今でも明るさの変化があると目がすぐ疲れて眠くなる(たとえばトンネルの連続)。

 ・大勢の声が入り乱れる状況はかなり長いこと苦手だった。こどものころは親類が集まるおりなどでも、たいてい、すぐ眠くなっていた。(かと思うとハイになって法事でもはしゃいだり)。学校給食時の放送は、ほとんど聞き取れなかった。

 ・目を合わせて話すなんていう芸当は、生まれてこのかた、できたためしがない。家庭や学校で「目を見て話しなさい」と言われた記憶もない。

 

www1.nhk.or.jp

 

 虹に色の境界線はない。スペクトラムとはそういうこと。それは自然。そこに七色なら七色を読み取って線を引くのは人為。

 「人間の分類」にも似たところがある。

 

 問題は、そうやって境界線を引いたとき、「こちら側」を問うことなしに「あちら側を理解しよう」と思ってしまいがちなことではないだろうか。いや他者理解は大切なことなのだが、それを「鏡」として自己の姿を写してみなければならない。

 こちら側が問われず、それが「普通」「常識」「当たり前」の、説明や配慮を要しない世界となり、「あちら側」が、特別な、理解しづらい、「初めて解明された」世界になり、優しい配慮の対象となる。そのことが生きづらさの大きな原因ではないだろうか。

 だから、そうではなくて、その「普通って何よ」が本当は問い質されるべきなのだろう。